【 ご由緒 】
=七百餘所神社について=
七百餘所(しちひゃくよしょ)神社のある村上の地は、古代、村神郷(むらかみごう)と呼ばれる北総地域きっての大集落があったことが発掘調査で明らかにされています。佐倉にある国立歴史民俗博物館の第一展示室には、この村上遺跡模型が展示されています。伝承ではこの頃、ムラカミとは「神々の群がる場所」という意味と伝えられ、日本中の八百万(やおよろず)の神々が集まる所の社(やしろ)という名では余りにも畏れ多いということから、百を引いて七百として七百餘所大明神と称したと伝わります。
社伝では創建は鎌倉時代と伝わりますが、境内に1400年前の古墳が存在することなどから、社としての始まりは、それ以前にさかのぼっても不思議はないでしょう。鎌倉時代、村上一帯は桓武平氏(かんむへいし)の末裔である千葉氏の勢力下にあり、社紋は千葉氏と同じ九曜紋(くようもん)・月星紋(つきほしもん)であることから、千葉氏の一族が支配する土地の守護神として、この神社を創建した可能性があります。同じ村上地区には正覚院(しょうかくいん)という寺院があり、鎌倉時代の作と考えられる「釈迦如来立像」(しゃかにょらいりゅうぞう)が県指定文化財に指定されています。寺伝では、この一帯を治めていた平真円(たいらのしんえん)により造立された仏像と伝わります。戦国末期には、平胤廣(たいらのたねひろ)なる人物が、この仏像を修復した記録が残っており、村上は鎌倉・室町時代には平姓(たいらせい)である千葉一族の支配下にあったことが想像されます。
神社の北西にあった米本城(よなもとじょう)は、室町末期(戦国時代)には、印旛沼一帯に勢力を持っていた千葉一族の原氏の居城である臼井城(うすいじょう)の西の防衛拠点と考えられています。主君、原胤貞(はらたねさだ)に従い、上総国(かずさのくに)の村上城から米本城に移った戦国武将、村上民部大輔綱清(むらかみみんぶのたいふつなきよ)が実在したことが、近年の研究で明らかになっています。攻め込んできた太田道灌(おおたどうかん)に敗れた村上一族が神社に逃れたのち、一族郎党七百名余りが、ここで自刃した結果、七百餘所大明神になったという伝承も残りますが、伝承の年号と村上氏が実在した年号が一致せず、太田道灌との武勇伝として村上氏を称える伝承になったものと推測されます。社宝として打楽器の羯鼓(かっこ)が伝わり、内部から天正十一(1583)年の墨書が発見されています。この頃には綱清の嫡子と考えられる助三郎胤遠(すけざぶろうたねとう)が活躍しており、胤遠が奉納した羯鼓の可能性もあります。原氏、村上氏は、その後の豊臣秀吉と北条氏の戦いに北条方として参戦しましたが敗れ、米本城もその役目を終えたと考えられます。神社では、1月と10月に氏子による神楽(かぐら)が奉納され、市の文化財にも指定されて大切に継承されていますが、神楽の始まりは、この羯鼓と何らかの関係があるかも知れません。
江戸時代以降は、佐倉藩領となった村上・米本・阿蘇の総鎮守として崇敬され、この頃から続く、毎月九日に行われる「中臣祓」(なかとみのはらえ)という穢れを清める神事は、現在も地元の方々の手で守られています。明治時代になると、「村社」の社格を与えられ、現在に至ります。
【ご祭神】
当神社のご祭神は、国常立尊(くにとこたちのみこと)です。この神は日本の八百万(やおよろず)の神々の中でも、最も古い時代に登場した神で、「日本書紀」によれば天地が生まれた後に現れた最初の神と言われます。日本の国土が永遠であることを象徴する神として崇敬されています。
【ご利益】
国土安穏(こくどあんのん)
受験合格・立身出世
除災招福・商売繁盛
安 産・縁結び
家内安全・交通安全
病気平癒
八方除け・厄除け
【合祀神社】
境内には菅原神社・古峯神社・子安神社・三峯神社・疱瘡(ほうそう)神社・妙正大明神・道了大権現・八坂神社・大山阿夫利神社・大杉神社
琴平神社を合祀(ごうし)した祠(ほこら)が
あります。
【出羽三山参拝記念碑】
江戸時代中期以降、八千代市域の成人男子は出羽三山(月山・羽黒山・湯殿山)に詣でて無事に帰ってくることで、初めて一人前に見なされるという習慣がありました。そして出羽三山に参拝した同年代の仲間たちで講(こう)というグループを作り、毎年春に参拝記念碑を建てた場所に集まり、「梵天(ぼんてん)祭」という出羽三山の神々に、農作物が豊かに実る五穀豊穣を祈る年中行事を行いました。当神社にも宮内地区代々の参拝記念碑があり、平成まで「梵天祭」が行われていました。
【庚申塔群】
庚申(こうしん)信仰は、江戸時代に庶民に広まった中国の信仰です。定期的に巡ってくる庚申の日に眠ってしまうと、腹から「サンシ」という虫が出てきて天に昇り、天帝にその人間の悪行を報告すると言われます。告げ口された人間は、怒った天帝によって寿命を縮められると信じられました。そのため庚申の夜は寝ずにお堂などに籠り、経などを唱えて過ごしたと伝わります。庚申塔は、一般的には60年に一度巡ってくる庚申の年に建てられる碑で、除災の力を持つ青面金剛(しょうめんこんごう)と呼ばれる鬼神が彫られることが多く見られます。
【中臣祓】
中臣祓(なかとみのはらえ)は、当神社で江戸時代初期から続くと言われる、伝統的な祓えの神事です。毎月9日の月次祭(つきなみさい)に氏子たちが拝殿に集まり、供物を捧げ、神職と共に「大祓詞」(おおはらえことば)を三度、神前で奏上します。祓詞を唱えることで、罪や穢れを消し去ることができます。中臣祓というのは、古代から続く由緒ある大祓詞ですが、当神社では「~八百万(やおよろず)の神たちと共に聞し召せともうす」という詞の部分で、「八百万の神たちと共に」の部分を除いて奏上する習わしとなっています。これは、前述の社名の伝承に基づくもので、八百万の神の集まる社(やしろ)とするには畏れ多いということから、七百の字を当てるようになったというものです。このことを踏まえると、この伝承に説得力があるように思えます。
境内には、中臣祓を一万遍(べん)唱えたことを記念する石碑も建てられており、地元の氏子たちの熱心な信仰の姿を今に伝えています。
【文化財】
神楽・羯鼓・七百餘所神社古墳
=神楽=
神楽(かぐら)とは、神に対して歌や踊りを奉納し、農作物の豊作や疫病(えきびょう)退散などを願うものです。村上の神楽は、毎年1月15日と10月9日の祭礼の時に行われます。元々十二座の舞いがあったようですが、現在は九座の舞いが伝わっており、恵比寿やアメノウズメなどの神々が登場し、島根県出雲地方の流れをくむ内容と言われています。正月の神楽では、氏子たちは12個の餅を神社に奉納し、代わりに別の一つを持ち帰る風習があります。残った餅は神楽の後に参拝者に撒かれます。また、全国的にも珍しい「湯立て」という神事が伝わっています。大釜に湯が沸かされ、その中に清めの塩を入れた熱湯を神職が笹の葉を使って浴び、そのしぶきを浴びた参拝者は、1年間、無病息災に過ごすことができると伝わります。
神楽は地元の「神楽保存会」の氏子たちによって継承されています。演者たちは仕事帰りに公会堂に集まり、夜遅くまで稽古に励みます。親子代々神楽に携わる氏子も多く、先祖から受け継がれた地元の伝統を絶やしてはいけないという熱い思いによって、村上の神楽は支えられています。
神楽
湯立て神事
=神楽の練習風景=
=羯 鼓=
羯鼓(かっこ)とは神楽などに用いられる打楽器で、2本のバチで打って演奏します。胴は桐(きり)の木で作られ、胴の両面に革が張られています。革枠の直径は40センチ、胴長は54センチあります。特筆すべきは胴内に墨書(ぼくしょ)が残されており「天正十一年」の年号などが記されていました。これは西暦1583年で、室町時代末期の戦国時代に当ります。この年号を拠り所とするなら、この羯鼓は県内でも最も古い部類に入ると共に、村上の神楽の起源が戦国時代まで遡る可能性も示唆しています。その他の墨書からは、江戸時代に一度修理され、明治時代に革を張り替えた可能性があることがわかっています。羯鼓は現在、村上の郷土博物館に収蔵されています。
羯鼓
八千代市立郷土博物館へ寄託
=古 墳=
市指定文化財
境内の南西に、およそ1400年前の古墳時代後期に作られたと推測される全長20メートル、高さ3メートルの円墳があります。神社のある村上の台地の南端には、八千代市最大の前方後円墳である根上(ねのかみ)神社古墳もあります。いずれの古墳も神社の境内にあることから発掘されておらず、保存状態も良好でよくその形態を留めています。この時代に村上一帯を支配していた豪族の墓であろうと推測されています。
古代の書物である『倭名類聚抄』(わみょうるいじゅしょう)には、「下総国印幡郡村神郷」(しもうさのくに いんばぐん むらかみごう)の地名が記されています。村上と、新川を挟んだ対岸の萱田(かやだ)及び市域北東部の保品(ほしな)の台地上から、発掘により多くの住居跡などが見つかっており、出土した墨書(ぼくしょ)土器に「村神」の文字が確認できたことから、この一帯が村神郷であることが明らかになっています。これらのことから村上が、古代から北総地域の中心的な存在の一つであったことが伺えます。
【八千代の梨 発祥の地・村上】
当神社の道路を挟んだ反対側に、八千代の梨栽培を成功に導いた宮﨑淏(きよし)氏、宮﨑規矩治(きくじ)氏の石碑があります。ふたりは親友同士でした。大正3(1914)年、村上地区の農家では、イモや麦の栽培、養蚕などで生計を立てていましたが、決して十分な収入が得られる訳ではありませんでした。そこで当時、農業学校で学んでいた淏は、梨栽培に成功している地域があると知り、 規矩治 と八千代で梨栽培を始める決心をしました。ふたりは市川や松戸の梨農家に通い、苦労を重ねて梨栽培の技術を学んで村上の地で、梨栽培を成功させたのです。
ふたりの栽培した梨は「阿蘇梨」と呼ばれ、高い評価を受け、東京に出荷するまでになります。ふたりは地域の人々に惜しみなく梨栽培の技術を広め、その後120軒もの梨農家が生まれました。現在も多くの梨農家が、その伝統を受け継ぎ、新しい品種の栽培に取り組み、毎年美味しい梨を提供する努力を続けています。
昭和39年建立 兼子通純八千代町長謹書による石碑